鯨食害論に終止符を打つ! - クジラと漁業の関係を徹底検証
捕鯨推進派のTwitterやブログなんかを見ていると、未だに「クジラが増えすぎて生態系が壊れる」「クジラが魚を食い尽くす」といった意見が見られます。 非常に嘆かわしいことです。
というのも、この鯨食害論と呼ばれている言説は、反捕鯨派によって既に様々な反論がなされているからです。
- Yahoo!ブログ - ブログ移行ツール
- 捕鯨問題〜クジラ・クリッピング──捕鯨問題ブログ: トンデモ鯨食害論を葬り去るとどめの一撃/中国メディアが捕鯨を分析/日本の動物番組が教える鯨研流致死的研究のお粗末ぶり
- IKA-Net - リーフレット『クジラが魚を食べ尽くす?? なわけがないっ!!!!』
- クジラは漁業を救う〝恵比寿〟!|クジラを食べたかったネコ
しかしこれらの反論は定性的な指摘がほとんどであり、鯨食害論を100%打ちのめすことはできません。
当記事の目的は、これらの反論をまとめたうえで鯨食害論をなるべく定量的に見直し、鯨食害論にいよいよ終止符を打つことです。
※本当は日本がIWCの脱退を決定した直後の2018年の年末に執筆する予定でしたが、運悪く卒論の時期が重なり、記事を出すのが遅れてしまいました。。。
目次
クジラはどのくらい魚を食べているのか
鯨食害論の発端
鯨食害論の発端は、日本鯨類研究所の田村氏が2001年に発表した以下の論文です。
Competition for Food in the Ocean: Man and Other Apical Predators
http://www.fao.org/tempref/FI/DOCUMENT/reykjavik/pdf/09Tamura.pdf
田村氏は以下の手順で、鯨類が消費する餌生物の量を算出しています。
- 各鯨種ごとにおける平均体重を用いて、1日当たりの摂餌量を算出し、それを365倍することで1年間の摂餌量に換算
- さらに鯨類の個体数の推定値を掛け合わせて、すべての個体の総摂餌量を算出
- 各餌の摂餌割合のデータを用いて、甲殻類(プランクトン)、魚、頭足類をそれぞれどの程度消費しているのか計算
体重から摂餌量を推定する際に3つの手法を用いており、全世界における餌生物の消費量は
- 手法1: 2.5億トン
- 手法2: 2.7億トン
- 手法3: 4.3億トン
という試算結果が出ています。田村氏はこの消費量を1996年における全世界の漁獲量と比較し、人間の漁獲量(8700万トン)の3倍から5倍の量を鯨類が消費していると結論づけました。
この試算結果をもとにして、「クジラの数を減らせば人間の漁獲量が増える」と考えたのが、鯨食害論です。
水産庁のHPでは、以下のように紹介されています。
海の中では、プランクトンを魚が食べ、それをさらに大きな魚などが食べるという「食物連鎖」が常に行われています。
近年、我が国やノールウェーの鯨類捕獲調査(調査捕鯨)で、この食物連鎖の一番上にいる鯨類が、さんま、さば、いわし、するめいか、にしんなど漁業の対象魚を想像以上にたくさん食べていることがわかってきました。たとえば,体長7.5mのみんくくじらの摂餌量は、北太平洋では1日当たり131~186kgと推定され、多くは主に魚介類を食べていると考えられます。他方、みんくくじらやまっこうくじらなど従来から資源量が健全であった鯨類が、商業捕鯨の一時停止措置(モラトリアム)により、大幅に増加しています。日本鯨類研究所[外部リンク]が試算したところ、世界の鯨類が1年間に食べる魚などの量は、2.8~5億トンと、世界の海面漁業の漁獲量(養殖を含めて約9,000万トン)の3~6倍にも達しています。
http://www.jfa.maff.go.jp/j/whale/w_document/hakusyo_h11.html
なぜかちゃっかり数字を多めに見積もっていますが、とりあえず水産庁が未だにこの言説を取り下げるつもりがないというのは確かなようです。
田村氏の論文に残る数々の不備
田村氏の論文の結果を見て、「やっぱりクジラは大食漢じゃないか!鯨食害論は正しいじゃん」と言う人がいるかもしれませんがそれは早とちりです。 彼の論文やその引用源には、多くの不備が散見されます。
1. 体重と摂餌量の関係式
手法1と手法2ではどちらも3億トン以下という結果が出ているにもかかわらず、手法3では4億トンを超える結果となっており、明らかに手法3だけ大きく異なっているのが分かります。 そこで、手法3で用いられている以下の体重と摂餌量の関係式について調べてみます。
ここで、$ I $は一頭の鯨類が一日に消費する餌生物の量、$ M $は体重を表します。
この式の引用元となった論文はKlumov氏が1963年に記した論文で、タイトルは「Pitanie i gelmintofauna usatykh kitov v osnovnyh promyslovykh raionakh mirovogo okeana.」となっています。
オリジナルはロシア語の論文なのですが、カナダのFisheries and Oceans Canadaという機関が英語翻訳版を公開してくれていたのでそちらを読むことに。
http://www.dfo-mpo.gc.ca/Library/145265.pdf
しかしながらこの論文の108ページには、以下のように記述されています。
Our calculations indicate (Klumov, 1961) that during the feeding period, the whalebone whales require about 30 - 40 g per kilogram of live weight.
拙訳:
我々の計算結果においては、摂餌期においてヒゲクジラ類が体重1kgあたり30 - 40 gの摂餌を行う必要があることが示唆されている (Klumov, 1961)。
また、Reilly氏らの論文においても彼の計算方法についてレビューを行った結果が記してあります。
この論文の2.4.2節には、以下のように書かれています。
Utilizing Klumov’s (1963) estimate for daily intake, she concluded that baleen whales require $ 30–40 \mathrm{g kg}^{-1} $ body weight per day (3.0–4.0%) during their 120-day summer feeding period in the Antarctic.
拙訳:
Klumov(1963)による1日当たりの摂取量を利用し、Lockyer氏は南極海における120日間の夏の摂餌期において、ヒゲクジラ類が体重1kgあたり30~40g (3.0%~4.0%)の摂餌を行う必要があると結論付けた。
クジラに詳しい人なら既にお気づきかもしれませんが、ヒゲクジラは基本的に摂餌期である夏にしか摂餌を行いません。
そう、この数字を単純に365倍してしまっては、1年間の総摂餌量は求まらないのです。
しかし、田村氏の論文ではこれを365倍してしまっています。 これは明らかな誤りです。
実際の摂餌期は120日。1年のうちの3分の1しか食べていません。 つまり、田村氏の論文は3倍増しされた値を計算していることになります。
2. クジラの個体数データの信憑性
クジラの個体数推定値に関しては様々な文献から引用しているようですが、ちょくちょく怪しい値が散見されます。
例えば、南半球におけるクロミンククジラの個体数は761000頭となっていますが、これは後に720000頭に下方修正され、さらにその後の調査では515000頭という個体数推定値が算出されています。
無論、この論文が出た時点ではこれらの値は確定していませんでしたので仕方ないかもしれませんが、事実として後に下方修正されています。 田村氏の論文では過大推定された値を使用していることになります。
他に気になったのはナガスクジラの個体数。南半球で85200頭となっていますがこれは明らかに多すぎです。 南極海捕鯨全盛期にはナガスクジラのほうが多く獲られていたのに、そのバイオマスはクロミンククジラと大差ないということになってしまいます。
この値は商業捕鯨が禁止される前の1979年にIWC科学小委員会で採択された値のようです。 この頃は現在と個体数の推定方法が異なっており、古い手法を用いて推定されたデータを用いていることになります。
IUCNによると、後の研究で1996年における個体数は約5100頭と推定されています。
つまり、南半球で大きなバイオマスを占めているとされるこの2種は、どちらも過大推定されたデータを用いていることになります。 特にナガスクジラは、IUCNに記載されている値の17倍もの個体数データを利用していることになり、それが算出される総摂餌量にダイレクトに影響しています。
特に手法3では南半球のナガスクジラだけで6000万トンのプランクトンを消費しているとしていますが、実際にはこの17分の1、350万トンしか消費していないことになります。
3. 餌生物の比率のデータの出典が明示されていない
論文の2.1.5節において、「Pauly et al. (1998)などの公開データから各海域における餌生物比率の推定値を用いた」と書いてありますが、肝心の「それぞれの海域における餌生物比率データの出典」がどこにも書かれていません。
科学論文において、引用されたデータの引用源が明示されていない。 これは重大な問題です。 大学の卒業論文で同じことをやらかしたら間違いなく減点対象になります。
さて、ここまでで総摂餌量算出の3ステップすべてに重大な不備が見つかりました。 私も研究を行っている立場ですので科学論文は200件以上読んでいますが、ここまで酷い論文は初めてです。
200件のうち1件だけ、シミュレーションの設定もガバガバで、統計的に明らかに誤った表現が含まれている論文を読んだことがありますが、田村氏の論文はそれよりも酷いです。 科学雑誌に投稿したら間違いなく却下されるレベル。
これでは反捕鯨派から「科学的根拠のないデマ」と言われるのも無理はないですね。
捕鯨による間引き効果を見積もる方法
ここまで、田村氏の論文の不備をいくつか指摘してきました。
しかし、クジラが魚やオキアミを食べ、少なからず人間の漁獲量に影響を与えるのは事実です。
では、捕鯨を行えば、人間の漁獲量はそれだけ増えるのでしょうか。 残念ながらそれは誤りです。
単純に捕鯨で間引きしたとしても、その分だけ人間の漁獲量の漁獲量が増えるわけではありません。
1. 捕鯨対象種に潜む罠
田村氏の論文において、総摂餌量の算出対象となっている鯨種は、
- ヒゲクジラ類: シロナガスクジラ、ナガスクジラ、イワシクジラ、ニタリクジラ、ミンククジラ、ザトウクジラ、セミクジラ、ミナミセミクジラ、タイセイヨウセミクジラ、ホッキョククジラ、コククジラ
- ハクジラ類: マッコウクジラ、オガワコマッコウ、アカボウクジラ、ツチクジラ、ミナミツチクジラ、キタトックリクジラ、ミナミトックリクジラ、シャチ、コビレゴンドウ、ヒレナガゴンドウ、オキゴンドウ、ユメゴンドウ、カズハゴンドウ、シワハイルカ、カマイルカ、ハナジロカマイルカ、タイセイヨウカマイルカ、ハナゴンドウ、ハンドウイルカ、マダライルカ、ハシナガイルカ、スジイルカ、マイルカ、サラワクイルカ、セミイルカ、メガネイルカ、イロワケイルカ、ネズミイルカ、イシイルカ、スナメリ、イッカク、シロイルカ
の合計43種です。
しかし、このうちで商業捕鯨の対象種になり得るのは、ヒゲクジラ全種およびマッコウクジラのみです。
つまり、商業捕鯨による間引き効果を考えるのであれば、商業捕鯨とは一切関係がない他の種はすべて除外し、11種のみの総摂餌量を計算しなければなりません(後で再計算します)。
2. 人間と競合しない餌生物
鯨類が食する餌生物の中には、人間と全く競合していないものもあります。 代表例としては、マッコウクジラが食しているダイオウイカやダイオウホオヅキイカが挙げられます。
他にもコククジラが食するスガメソコエビ科ヨコエビ類などは人間とほとんど競合していません。
したがって、捕鯨による間引き効果にこれらの消費量は含めるべきではありません。
3. 捕鯨の限界
日本は、「持続可能な捕鯨を目指す」と言っています。 では、「持続可能な捕鯨」を行うにはどのようにしたら良いでしょうか。
ここで、生物資源学の基本となるMSY理論をもとに考えてみます。
2匹の雄雌の鹿がいて、各世代で雄雌のペアは2頭の雄と2頭の雌を産むとします。 次の世代には、個体数は4頭となります。 さらに次の世代は8頭、次は16頭というように個体数が多ければ多いほど、個体数は急激に伸びるようになります。
しかし、個体数が多すぎると、餌の取り合いになり、その結果死亡率が高まっていき、最終的に個体数は増加しなくなります。 生物の個体数をx, 1年あたりの個体数増加量をyとすると、以下のようなグラフが出来上がります。
生物はある個体数(MSYL)において個体数の増加量が最も高くなることが分かります。
もしも毎年MSYより多くの数を捕獲してしまうと、生物の個体数は減少し続け、絶滅してしまいます。 したがって、捕獲数はMSYよりも低く設定する必要があります。
すると、MSYLよりもやや高い個体数で安定するようになります。 つまり、持続可能な捕鯨を行う場合、クジラの個体数はMSYLよりも高く保つ必要があることが分かります。
一般的にクジラのMSYLはKの値の0.7倍程度と言われていますが、気候変動などによる影響も考えると安全ラインは8割といったところでしょうか。
よって、捕鯨を行ったとしても、クジラの個体数は最大で2割しか減りません。 ここが持続可能な捕鯨の限界です。
4. 競合しているのは人間だけじゃない
クジラが減れば、本来食べられるはずだった魚は生き残ることになります。
では、これらの魚をすべて漁獲できるでしょうか?
残念ながらそう単純にはいきません。
人間と同じように、小型鯨類、鰭脚類、鳥類、大型魚類など様々な生物が魚類を食しています。 クジラが食べなかった分は、これらの生物に分配されることになります。
また、これらの生物に食べられなくても、魚が自然死するケースがありますので、本来はそのことを考慮に入れなければなりません。
残念ながら今は鰭脚類、鳥類、大型魚類のデータがありませんので、小型鯨類だけ考えることにします。
田村氏の論文で過大推定されていることを考慮に入れると、小型鯨類の捕食量は人間の漁獲量の約半分程度。 つまり、ヒゲクジラの捕獲によって生じた余剰分のうち最大で3分の2しか人間は利用できないことになります。
5. 「プランクトンの消費」と「魚の消費」の違い
ところで、田村氏はプランクトンと頭足類と魚の消費量をすべて総合した量は人間の漁獲量の3~5倍としています。 しかし、この数値は全く意味を持ちません。
なぜなら、プランクトンは人間と競合していないからです。
とはいっても、「クジラがプランクトンを食べれば、それを食べる魚が減って、漁業にも影響が出るだろう」という指摘は、当然あると思います。 なので、プランクトンの捕食が人間の漁業にどのような影響を与えるのか考えてみましょう。
まず、近年の乱獲によって、プランクトンのバイオマスには余剰が生じたと考えられています。 つまり、魚やクジラが減ったことで、それまで食べられていたはずのプランクトンが、食べられなくなったということです。
日本鯨類研究所も、この「オキアミ余剰仮説」を支持しているようです。
この仮説が正しい場合、仮にクジラが増えたとしてもプランクトンの余剰分がなくなるだけなので、魚類資源には影響をほとんど影響を与えません。
とは言っても、やはり仮説は仮説、データが揃っていない以上正しいとは言い切れません。 では、仮に仮説が間違いで、プランクトンに全く余剰が生じていないと仮定した場合はどうなるでしょうか。
実はこの場合も、田村氏の3~5倍という数字はやっぱり意味をなしません。 なぜなら魚は毎年自分の体重よりも多くのプランクトンを食しているからです。
どういうことでしょうか、順を追って考えてみます。
クジラが毎年1トンのプランクトンを食しているとします。 このクジラがいなくなると、代わりに魚が毎年1トンのプランクトンを食すようになります。 では、「毎年1トンのプランクトンを食す魚」の量とは具体的にどれくらいでしょう。
これは、「給餌率」という数字を用いることで計算できます。 給餌率とは、単位体重当たりどれくらいの餌を必要とするのかを示す係数です。
以下の資料によると、魚の給餌率は種や季節によって変動があるものの、平均すると1日当たり1.0~1.5%程度であることが分かります。
これを1年間に換算すると、1年間で自体重の4~5倍の餌を消費していることになります。 これを「年間給餌率」と呼び、以降は$ R_y $と表記することにします。
ここから考えると、「毎年1トンのプランクトンを食す魚」の量は$ 1 / R_y $トンという結果になります。
ここから分かることは、クジラの捕食による間引き効果を考えるのであれば、プランクトンの捕食量は$ 1 / R_y $倍すべきだということです。
さらに、ここでBayes推論の考え方を持ち出してみます。 オキアミ余剰仮説が正しい確率を50%とし、プランクトンの捕食による魚の増加量の期待値を計算すると以下のようになります。
ここで、Iはクジラが捕食するプランクトンの量を表します。 プランクトンの消費量は、(1)式を用いて修正した後に足し合わせるのが好ましいということが導かれます。
プランクトンが稚魚を捕食する?
ヒゲクジラ類はカイアシ類を捕食することが知られていますが、このカイアシ類はサイズが適当であれば何でも捕食することが知られており、時には他の動物プランクトンや稚魚まで食べてしまいます。
したがって、プランクトンが増えてしまうとカイアシ類による捕食圧も増大し、プランクトンや稚魚を食べてしまうので、実際の捕鯨による間引き効果はさらに小さくなる可能性があります。
http://fishlab.hiroshima-u.ac.jp/digital/kaiasi/kaiasi-toha/food.html
しかしこれに関しては定量的なデータが見当たらないため、ここでは敢えてこの効果を無視することにします。
6. 漁業の経済的性質
もし仮に、「クジラが減れば漁獲量が増える」ということが立証されたとしても、その漁獲量の増加は一時的なもので、すぐにまた漁獲量は減ります。
なぜなら、魚が増えれば、漁獲量も増えます。
漁獲量が増えたのと密度効果が高まったことにより、再び魚は減少に転じます。
そうすると、漁獲量はまた減ります。
つまり、クジラが減ったことにより増えた魚も、結局人間がすぐに獲ってしまうので意味がないということになります。
※魚の資源をMSYL以上に保つような持続可能な漁業の場合は漁獲可能量は増えるのですが、残念ながら日本の魚種のほとんどは、資源水準が中位または低位にあるという状態です。
捕鯨による間引き効果の計算
ここまで挙げてきた要素を考慮した場合、捕鯨をした時に人間が利用できる魚はどれくらい増えるのかを算出してみたいと思います。
計算手順は以下の通りです。
- 捕鯨対象種の各種ごとにおける平均体重を用いて、1日当たりの摂餌量を算出し、それを365倍することで1年間の摂餌量に換算。ただし、手法3については120倍とする。
- 修正後の鯨類の個体数の推定値を掛け合わせて、すべての個体の総摂餌量を算出
- 各餌の摂餌割合のデータを用いて、甲殻類(プランクトン)、魚、頭足類をそれぞれどの程度消費しているのか計算
- マッコウクジラの餌生物のうち頭足類は人間と競合しないと考え0倍する。
- プランクトンの摂餌量を(1)式を用いて修正する。ただし、$ R_y $は低めに見積もって4.0とする。
- 各餌生物の消費量を合計する。
- 捕鯨の限界を考慮し、出力値を0.2倍する。
- そのうちの3分の2を人間の取り分とする。
以上の手順に基づいて計算を行った結果、「捕鯨を行うことによる魚類の増加量」は以下のように試算されます。
手法1 | 手法2 | 手法3 | |
---|---|---|---|
クジラが実質的に消費している魚の量 | 37,911,250 | 44,749,685 | 25,862,921 |
捕鯨の限界 | 7,582,250 | 8,949,937 | 5,173,184 |
人間の取り分 | 5,054,833 | 5,966,625 | 3,448,789 |
単位はすべてトン(t)です。 3つの行はそれぞれステップ6, 7, 8に対応しています。
計算に用いたExcelシートを公開しておきます。
ここから考えると、捕鯨を行った場合に得られる魚の加入量の限界は約5百万~9百万トンで、そのうち人間が利用できるのが3分の2以下ということになります。
つまり、田村氏の論文の不備を修正して再計算した場合、実際に消費している水産資源の量は田村氏の論文の10分の1、そして捕鯨による間引き効果の人間の取り分は、多めに見積もってもわずか1%にすぎないということがわかります。
ここに書かれている数値は、あくまでヒゲクジラ全種とマッコウクジラの個体数をきちんと2割減らした場合に得られる最大値であるということを忘れてはなりません。 実際には日本の商業捕鯨の対象となっているのはミンククジラ、イワシクジラ、ニタリクジラ、カツオクジラのたった4種です。 したがって、これらを獲ったところで加入量にはほとんど影響を与えません。
カイアシ類の捕食や、小型鯨類以外との競合を考慮に入れれば、実際の間引き効果はさらに小さくなります。 日本がIWCを脱退し、商業捕鯨を再開するようですが、それで魚が増えることはないし、魚が安くなることはもっとあり得ません。
また、この記事の最後にはクジラが生態系にもたらす「恩恵」について考察し、クジラを獲ることが必ずしも漁獲量の増加につながるわけではないということを示します。
「ホットスポット仮説」は正しい?
話はこれで終わりません。 水産庁が述べたもう一つの仮説、「ホットスポット仮説」が残されています。
鯨論・闘論というサイトにおいて、水産庁の森下氏は質問に対し以下のように回答しています。
一言でいえば,世界の海の中にはクジラと漁業が競合している可能性があるホットスポットがあるらしいというのが,もっとも正確ないい方だと思います。 捕鯨をめぐる議論の中では,日本が,「クジラが世界中で漁業資源を食べつくしているから,間引きしてしまうべきだ」と主張しているように言われたり,逆に,「南極海ではクジラはオキアミしか食べていないので,(世界中で)漁業との競合はない」という単純化された反論が行われたりしていますが,両方とも極論です。
鯨論・闘論 「どうして日本はここまで捕鯨問題にこだわるのか?」
しかし、この仮説にもいくつかの不備があるということがすぐに分かります。
1. 科学的根拠がない
もともとこの仮説はどこから来たものなのでしょうか。 先ほどの「鯨論・闘論」で森下氏はJARPNⅡの予備調査の結果を紹介しておられましたので、この予備調査の結果について調べることにします。
予備調査の結果は2002年のIWC/SC会合において提出されたので、この会合のレポートを読んでみました。 レポートはこちらからダウンロードすることができます。
このレポートに示されている調査結果の部分を見ても、「ミンククジラの胃内容物は海域ごとの魚種構成を反映していた」「ニタリクジラに関しては有用な結果を見いだせなかった」などと書いてあるだけで、ホットスポット仮説に関連しそうな科学的根拠は見当たりません。
唯一この仮説に関連しそうなものと言えば以下の一文だけ。
For example, dip-netfishermen have complained about interference by minkewhales more frequently in recent years.
拙訳:
例えば、棒受網漁業者は近年ミンククジラによって邪魔されているという抗議を行っている。
もしこれがホットスポット仮説の唯一の根拠なのだとしたら、とんでもなくお粗末な仮説にすぎません。
科学的データもなく、民間漁業者の意見だけを根拠とした仮説なんていくらでも作れてしまいます。 例えば、日本では古くからクジラは「恵比寿様の化身」と呼ばれ、鯨を追えば高い確率で魚の群れにたどり着けるという伝承があります。
ホットスポット仮説がアリなら当然この「恵比寿様仮説」もアリなわけで、ホットスポット仮説だけ強調して漁業被害を語るのは、単なる印象操作に他なりません。
2. ホットスポットがあっても結局同じ
ホットスポット仮説というのは、「世界中の海の中で、人間とクジラが強く競合している海域がある」というものです。
しかしよく考えてみてください。 魚が多く集まる場所は、人間も漁を行う場所です。 そしてその場所には自然とクジラや他の生物が集まってきます。
つまり、ホットスポットは自然に出来るものです。 そしてそこで仮に人間とクジラの競合が起こっていたとしても、「持続可能な捕鯨」では2割までしか減らせないし、他の生物が競合しているために人間の取り分は減ります。
上で述べた、鯨食害論の問題点がそのまま当てはまるのです。
その海域だけで見ればクジラの摂餌量が漁業を上回るかもしれません。 しかしながら、捕鯨を行っても間引き効果がほとんど得られないことが分かっている以上、ホットスポット仮説は捕鯨を行うべき理由にはなりません。
クジラは漁獲量の増大をもたらす
まだ話は続きます。
これまで、捕鯨による間引き効果は小さいという話をしてきました。
そこで最後に、鯨食害論と真逆の主張である「クジラが増えれば漁獲量も増える」ということを示す様々な科学的根拠を紹介しようと思います。
1. Whale Pump効果
Whale Pump効果とは、鯨類が中深層や漸深海層で摂餌を行い、海表面付近で排泄することによって、有光層では貴重な元素である鉄分や窒素などを豊富に含む栄養塩を供給し、表層生態系の一次生産を促進するというものです。
陸から離れた沖合、特に低緯度海域の海は「海の砂漠」と言われていて、陸からの栄養塩の供給がほとんど届かないため、植物プランクトンが生育しにくい環境になっています。
しかしヒゲクジラ類は高緯度海域で摂餌を行い、冬になると低緯度海域に回遊します。 つまり、ヒゲクジラ類はこの「海の砂漠」に栄養塩を供給し、砂漠に緑をもたらしてくれる貴重な生物なのです。
しかし20世紀の乱獲によってクジラの個体数は激減し、これらの栄養塩の運搬能力が6%以下にまで落ち込んでしまったと推定されています。
もしかしたら近年の日本近海における不漁も、この運搬能力が減少してしまったからかもしれません。
Roman氏はさらにタイセイヨウセミクジラの糞をひたすら採取し、それをもとにWhale Pump効果の大きさを試算したところ、Whale Pump効果が沿岸域における1次生産に大きく貢献していることが明らかになっています。
2. 炭素固定
クジラが死ぬと、ほとんどの場合、その体は海底に沈みます。
しかしその巨大な体故、完全に分解されるまでには100年以上の歳月を費やします。 その間、海底を流れる海流によって、クジラの体はどんどん深いところに流されていきます。 最終的には深海層や超深海層に行き着き、バクテリアによって分解されます。
そうすると、体内に固定していた炭素がCO2として排出され、そのまま深海中に溶け込みます。 深海は水圧が非常に高いため、その分多量のCO2が溶け込まれることになります。
つまり、クジラは炭素を深海に運搬し、溶け込ませることで、大気中のCO2濃度を減らす役割を持っているのです。
- Why whales can help save our planet – if we let them - Whale & Dolphin Conservation USA
- Carbon credits proposed for whale conservation : Nature News
CO2が減り、温暖化が抑制されれば、海水温の上昇も抑えられることになります。 つまり、この炭素固定効果は、魚の資源量をも増やす可能性があります。
この話、反捕鯨派の間ではかなり有名な話で、今年度のIWC総会で採択されたフロリアノポリス宣言でも取り上げられています。
3. 魚種交替緩和効果
同じ海域で複数の魚種が競合しあっている場合、魚種交替という現象が起こることが知られています。 例えばある年にイワシが豊漁だった場合サバが減ってしまい、しばらく経つと今度はイワシが減ってサバが増え、また時間が経つとイワシが入れ替わるといった現象が起こります。
一方で、日本近海におけるミンククジラは餌生物の嗜好性が低く、各海域でその時最も多い魚種を食べることが分かっています。
https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/51479
つまり、イワシが多いときはイワシを多く食べてイワシが増えすぎるのを抑えます。 逆にサバが多いときはサバを多く食べます。
こうすることによって魚種交替が緩和され、魚の個体数が大きく変動するのを防止する効果があります。
論より証拠、ということで実際にシミュレーションを行ってみます。
まずは3魚種間での魚種交替をモデル化するため、Lotka-Volterra方程式の解軌道を用いて以下のように定式化します。
ここで、$ N_i $は各魚種の個体数、$ r_i $は自然増加率を表します。
2種ではなく3種にしたのは、先行研究におけるパラメータの値をそのまま使いたかったからそれに合わせたというだけであって、深い意味はありません。 2種でも同じ結果が導けるはずです。
実際には、これらの魚種は100%競合しているわけではなく、それぞれ独自の摂餌海域があり、その海域の餌生物は独占できるものと仮定します。 すると、(2)式は以下のように修正できます。
ここからが本番です。 ミンククジラは、各魚種の個体数に比例した割合で摂餌を行うと仮定します。
この仮定により、(3)式は以下のように修正されます。
ここで、$ w $はクジラによる捕食圧を示す係数で、この値が高いほどクジラが多くの魚を消費することを表します。
この式を用いて実際に個体数の変動をシミュレーションし、クジラがいた場合といなかった場合でどのような違いが生じるのかを示した結果がこちらになります。
$ w $が大きいほど魚種交替が抑制されていることが分かります。
では、魚種交替が抑制されると何がうれしいのでしょうか。
魚が枯渇してしまうリスクを避ける
上記のリンク先でも示したように、魚種交替が抑制されると魚の個体数の最低値も大きく上昇し、個体数が安定することが分かります。 つまり、魚が危機的な不漁に陥り値段が一気に高騰してしまう問題を避け、安定した供給を続けられるようになります。
クジラを獲ってしまうと魚種交替による個体数変動が大きくなり、一時的に魚の値段が急激に高騰してしまう可能性があります。
豊漁貧乏を防止する
豊漁貧乏という言葉を聞いたことがあるでしょうか。
ある魚種の個体数が急激に増加すると、その年は当然豊漁になります。 そうすると、それまで高値で取引されていた魚の値段が一気に低下し、値崩れを起こしてしまいます。
こうなった場合に何が起こるかというと、漁業者は数日、あるいは数週間の休漁を行い、わざと供給量を減らします。
つまり、豊漁になりすぎて魚が獲れないという、一見すると矛盾した現象が起こります。
一方で、クジラが増えて魚種交替が緩和されれば、豊漁貧乏にもならなくなり、魚を無駄なく漁獲し続けることができます。 つまり、魚種交替が起こらないほうが無駄なく漁獲できるため、漁獲量は多くなることになります。
また、近年ではTACによる漁獲規制によって漁獲に無駄が発生する場合があります。 例えば2019年には、ズワイガニの豊漁で総漁獲量がTAC割当て分を超過しそうになり、厳しい漁獲制限を設ける事態となっています。
魚種交替が抑制されて個体数の変動も小さくなれば、このような問題も避けられるかもしれません。
4. 鯨食害論と水産資源管理
NOAA FisheriesのPeter Corkeronは、鯨食害論が正しいと仮定した場合と誤りであると仮定した場合においてシミュレーションを行い、鯨食害論が誤りであると仮定したほうが現実のデータをよく近似していることを示しました。
彼はこの説を裏付ける科学的証拠が存在しないと述べたうえで、漁獲資源の減少理由としてこの説を持ち出すことで、人間による乱獲という根本的な問題への対処が疎かになるという問題を指摘しています。
https://www.researchgate.net/publication/228530664_Are_whales_eating_too_many_fish_revisited
また、日本では捕鯨事業と水産資源管理には同じだけの予算がつぎこまれており、捕鯨を完全に中止すれば資源管理に最大2倍の予算をつぎ込めることになります。
そうすれば水産資源をより適正に管理することが可能となり、結果として漁獲量は増大します。
5. 他の大型魚類の個体数をも支えている
ここまできて鯨食害論が正しいなんて言うつもりは全くありませんが,もし仮に,仮にも鯨食害論が正しかったとします.
その場合,クジラの数を減らせば,クジラの被食者である小型魚類は加入量過多の状態になり,個体数は増えることになります. 小型魚類はr選択種であり,共倒れ型の繁殖戦略を取っているため,環境収容力を超える程度まで個体数は増加し続けます.
すると,小型魚類の餌生物が捕食圧の増加により減少し,同時に小型魚類と競合していた他の魚種,特にマグロなどの大型魚が個体数を減らすことになります. 特に大型魚類は小型魚類に比べて繁殖力が弱いほか,漁業においても真っ先に乱獲されていった魚種です. つまり,ミンククジラの餌生物であるカタクチイワシなどが増える代わりに,タラやマグロといった大型魚がニッチを奪われ,資源量が減少します.
まとめ
鯨食害論の発端となった論文には、さまざまな不備が見られました。 また、その論文の結果から「クジラを獲って魚を増やすべき」という主張に結びつけるのには多くの問題点が含まれています。 実際にクジラの間引き効果を試算したところ、田村氏の論文とは大きく異なる結果が得られました。
また、鯨食害論とは真逆の主張である「クジラが増えると漁獲量も増える」という主張を裏付ける様々な科学的根拠を紹介しました。
鯨食害論は穴だらけの言説であるにも関わらず、多くの科学的根拠に基づく「クジラが増えると漁獲量も増える」という言説が無視され、鯨食害論だけが強調されています。 このことは捕鯨推進派にとって有利になる情報だけが罷り通っている日本の現状を強く象徴していると考えられます。
鯨食害論はもはや時代遅れで科学的根拠に欠けた言説であり、捕鯨を行うべき理由として鯨食害論を取り上げるのは適当ではないと考えます。
著名な倫理学者ピーター・シンガー氏は、日本のIWC脱退をどう見るか
Peter Singer(ピーター・シンガー)氏は、応用倫理学の世界的権威として知られており、2005年にタイム誌によって世界の最も影響力のある100人にも選ばれた著名な倫理学者です。
彼自身は動物の権利論や菜食主義思想の新たな枠組みとして独自の道徳規範を提唱し、過去40年以上にわたる論争によって、生命倫理学に関する知見を飛躍的に進歩させてきました。
彼の理論はほぼ全て利益に対する平等な配慮という唯一つの道徳規範に基づいており、今までに
など数多くの著書を執筆しながら、多くの社会問題に関して応用倫理学的見地から疑問を投じています。
また彼は一部の動物種に対して人格(Personhood)が認められると主張し、従来のパーソン論と動物倫理学との橋渡しを行うなど、これまでの倫理学の枠組みに大きな変化をもたらしてきました。
そんな彼が先日、カナダのThe Globe and Mail誌に社説を掲載しました。内容は日本のIWC脱退に対するもので、現代倫理学的観点から見た捕鯨のあり方と問題点、そしてIWCが果たすべき役割について執筆なされています。
今回の記事は、この社説の全文和訳です。捕鯨問題の説明資料として是非ご活用頂ければと思います。
稚拙な和訳ですがご了承ください。
「海には多くのクジラがいるが、人間が獲るための『資源』ではない」
12月26日、日本は国際捕鯨委員会(IWC)から脱退することを発表した。菅義偉内閣官房長官は沿岸地域における捕鯨事業の文化的重要性を強調したうえで、IWCが鯨類の保護ばかりに注目し、持続的な捕鯨事業の発展という本来の目的を見失っていると主張した。
IWCが本来の目的に沿っていないというのは否定しがたい事実だ。IWCはもともと1946年に採択された国際捕鯨取締条約に基づいて設立された機関である。同条約の前文では鯨類を「大きな天然資源」と捉えており、また条約の目的が「鯨類資源の適正な保全を行い、それにより捕鯨事業の秩序ある発展を実現する」ということが明記されている。
最初の25年間、IWCはその方針に従ってきた。しかし1970年代以降、鯨類に対する情勢は変化し始める。捕鯨を続行するために資源の非持続的な乱獲を防止する目的で加盟していた国々が、市民の意見を積極的に取り入れ始めたのだ。その結果、1986年に商業捕鯨モラトリアムが採択された。すべての鯨種に対していかなる捕鯨によっても持続可能性が危ぶまれるとは言い難い現在においても、このモラトリアムは解除されていない。
日本は公然とモラトリアムに違反していたわけではない。しかし、科学的研究のために鯨を殺すことができるという条約の抜け穴をくぐり抜けてきた。日本は科学的研究という名目で毎年約300頭の鯨を捕獲していたのである。鯨肉を食べたいという人は年々減少しているにもかかわらず、鯨類の死骸は捕鯨船により回収され、その肉を鯨肉として販売していた。
2010年、オーストラリアは日本を国際司法裁判所に提訴し、その結果日本の捕鯨は実質的には商業捕鯨であり、条約に違反するという判決がなされた。しかし日本は研究計画にわずかな変更を加えただけで、その後も以前とほぼ同じ数のクジラを捕殺し続けた。
昨年9月、ブラジルのフロリアノポリスで開かれた会合で、商業捕鯨モラトリアムを続行するというブラジルの提案(フロリアノポリス宣言)が賛成40、反対27で可決され、IWCの目的に変化が芽生えた。捕鯨はもはや不必要な経済活動とみなされるようになったのである。国家の意地にかけても捕鯨を存続したかった日本にとって、この採決は無益なIWCへ加盟し続けるための最後の藁となった。
しかし我々が無視できない事実は、IWCにおける情勢の変化を招いた鯨類への新たな姿勢は、神聖な大型動物を殺すことに対する感情的な嫌悪によるものでも、西洋の価値観の押し付けによるものでもないということだ。その根底にあるのは、鯨類に関する科学的知見の発展と、人間を超えて他の種にまで道徳的配慮の輪を広げようとする人類の倫理的進歩である。こういった道徳的配慮は、あらゆる生命に対して畏敬の念を抱くという日本の仏教における戒律に非常に類似している。
1946年以降鯨類に関する知見は飛躍的に進歩し、彼らが巨大な脳を持つ社会的な動物であること、多様な鳴音を用いて他の個体とコミュニケーションをとることが分かってきた。彼らは自分の子供や社会的な群れと強く結ばれている。クジラは非常に長生きする動物で、特にホッキョククジラは他のどの哺乳類よりも寿命が長く、ある個体からは200年も前の牙の先端が肉の中から発見されている。他のクジラも40年以上という長い寿命を持っている。また、彼らは感情と痛覚の両方を併せ持つと言われている。それも物理的苦痛を感じるのみならず、群れの仲間や自分の子供を失った際に精神的苦痛を伴う可能性が非常に高い。
それ故に鯨類は、国々が石炭を資源として蓄えるという意味での「資源」ではない。また、小麦畑のように収穫されるような「資源」でもない。彼らは一つの道徳的存在であり、彼らの生き方に従って彼らの行く末が決定される。
現代の商業捕鯨では、移動する標的に向けて移動する船舶から爆発銛を発射することでクジラを捕殺している。この方法を用いてクジラの急所に命中させ、相手の意識を一瞬で消失させることは非常に困難である。また一瞬で絶命させるほどの爆発を起こそうとするとクジラの体が吹っ飛んで粉々になってしまうが、捕鯨船の乗組員の目的はなるべく無傷で鯨体を回収することであるため、あまり多くの爆薬を使用することを望まない。もし仮に我々がクジラを食べないと死んでしまうという状況であれば、感受性を持つ社会的動物に対してそのような捕殺方法を取ることも必要悪と認められるかもしれない。しかし日本含む飽食の国にとっては、それは正当性を持たない。
捕鯨事業が古来からの遺産であるような日本の一部の地域のおいても、捕鯨は十分な正当性があるとは言えない。中国における纏足は古来からの文化的遺産であったが、女性にとっては多大な負担であった。今となっては、この文化が衰退し過去の出来事となったことは好ましいことだ。捕鯨も同じ道を辿るべきであろう。
いや、実際そうなるかもしれない。日本がIWCを脱退すれば、「科学的研究」の名目のもとで南大洋で行っている捕鯨は中止となる。この事実を認識したうえで、日本は、自国の領海または排他的経済水域(EEZ)内、つまり、国土の周囲約450万平方キロメートルの海域でのみ捕鯨を行うことを宣言した。面積だけで言えば十分広いのだが、南大洋と比較するとクジラの生息数は遥かに少ない。また日本は持続可能な捕鯨を計画しているため、捕鯨船による捕獲枠は大きく制限される。
我々は日本がIWCを脱退したという事実にうろたえるのではなく、むしろ1994年にIWCで採択された南大洋サンクチュアリが、今では粗暴な「科学的研究」が二度と行われることのない、本当の意味での「聖域」になるということを喜ぶべきなのかもしれない。
一部の日本国民を含む多くの国の人々が持つ正当な道徳的関心を無視し、日本はIWCからの脱退を決定した。これにより日本は国際社会からの孤立への道を一歩進むことになる。しかし次世代の日本で政権を握る人々は、間違いなくこれを誤ったステップと捉え、そして再び逆転させようと考えるだろう。
ちなみにPeter Singer氏は以前にも捕鯨問題に関する記事を執筆なさっています。こちらは別の方が既に全訳されているようなのでリンクを貼っておきます。
2018年度IWC総会 「フロリアノポリス宣言」の和訳
2018年度IWC総会にて採択された、"THE FLORIANÓPOLIS DECLARATION ON THE ROLE OF THE INTERNATIONAL WHALING COMMISSION IN THE CONSERVATION AND MANAGEMENT OF WHALES IN THE 21st CENTURY"の和訳です。
ソース:
商業捕鯨モラトリアムの必要性や、21世紀の国際社会におけるIWCの役割などが記載されています。
稚拙な和訳ですがご了承ください。誤訳などありましたらコメント欄にてご指摘いただけると幸いです。
フロリアノポリス宣言(和訳: Kogia_sima)
国際捕鯨委員会(IWC)が鯨類保護や捕鯨管理の役割を担う中心的な国際機関として広く認識されている一方、
鯨類研究や管理の代替的手法又は鯨類資源の持続的な利用の発展、及び国際捕鯨取締条約(ICRW, 1946〜)の制定以来の数多くの国際法の制定によって、委員会は、鯨類保護に向けた多くの解決策及び鯨類資源の非致死的管理を含む多様な附表修正、並びに海洋生態系における重要な生態的役割や炭素循環への貢献を満たすための健全な鯨類資源の維持に関する役割を担うことを認識し、
生存的文化的目的により鯨類に依存している先住民の需要を支援することの重要性を(加盟国が)認めているにも関わらず、鯨類やその生息域の保護に関する幅広い人々の関心を満たすことにおいては、IWCの権利の使用方法について加盟国間で意見が分かれていることを認め、
鯨類の非致死的利用に関する決議(Resolution 2007-3)を再考し、鯨類が生態系において重要な役割を担い、また自然環境や人々に利益をもたらす存在であって、さらに持続可能な非致死的・非抽出的な利用が急速に高まりつつあり、これらが発展途上国を中心として世界中の沿岸地域共同体に大きな社会経済的利益をもたらしていることを認め、
1986年に施行された商業捕鯨モラトリアムがいくつかの鯨類の個体群の回復に貢献していることを再確認し、漁網への絡まり(entanglement)、混獲、騒音、船舶との衝突、海洋ゴミ、及び気候変動など、鯨類に対する過去及び現在の脅威が累積していることを認識し、
沿岸地域共同体に対して科学的知見、事業、収益をもたらす非致死的な活動が行われている海域において、締約国政府の大多数の支持のもと、ICRW第5条に従って加盟国から頻繁に鯨類サンクチュアリが提案されていることを確認し、
さらに国際捕鯨委員会の独立審査に対する回答に関する決議(Resolution [2018-X])を確認する。
これらの前提のもと、委員会は、
鯨類の個体数を近代捕鯨以前の水準まで回復させることの責任を含む21世紀の国際捕鯨委員会の役割に同意し、この背景のもと商業捕鯨モラトリアムの重要性を再確認し、
現代において鯨類の非致死的調査法が多数存在することを認め、またそれによって致死的な調査法の適用が不必要であることに同意し、
漁師の安全や鯨類に対する動物福祉のため、先住民に利益をもたらす先住民生存捕鯨がIWCにより管理・保護されるように努め、
Resolution [2018-X] に従ってOEWG(Working Group on Operational Effectiveness)により提案された計画を実行する際、鯨類の保護資金の必要性や非致死的管理に係る問題を考慮に入れるよう各小委員会等に指示し、
移動性野生動物種の保全に関する条約委員会の2017年の第12回総会において採択された、南大西洋における鯨類及びその生息域の管理と保護に関する決議の内容を確認し、南大西洋沿岸各国に対してサンクチュアリの適正な施行のために協力を依頼し、
持続可能な非致死的利用の推進などの鯨類保護活動を連携させるため、生物の多様性に関する条約、移動性野生動物種の保全に関する条約、南極の海洋生物資源の保存に関する条約、および世界観光機関など、関連する他の条約や組織とのさらなる協力を求めるよう事務局に依頼し、さらに
この宣言の内容が、国際連合事務総長、国際連合総会、国連環境計画、移動性野生動物種の保全に関する条約、生物の多様性に関する条約、南極の海洋生物資源の保存に関する条約、絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約、海洋法に関する国際連合条約、その他委員会で一般的な議論や協力が行われているような国際条約に取り入れられるよう、事務局に依頼する。
本文を引用する際は、なるべく原文の該当する部分も併せて載せるようにお願いします。
ライントランセクト調査による個体数の区間推定5
さて、$ \hat{w} $、$ n $、$ \bar{s} $の分散をそれぞれ考えてきました。また一番最初の記事で紹介した
Var[D] \cong \left( \frac{n \bar{s}}{2L \hat{w}} \right)^2 \left(\frac{Var[n]}{n^2} + \frac{Var[\hat{w}]}{\hat{w}^2} + \frac{Var[\bar{s}]}{\bar{s}^2} \right)
という式を用いれば、生息数密度Dの分散が求まります。これをもとに、いよいよDの信頼区間について考えていきたいと思います。
$ \hat{D} $は通常、対数正規分布に従うと仮定されます。なので、$ \log(\hat{D}) $は正規分布に従います。正規分布に従う確率密度関数の95%信頼区間は、統計の教科書に載っているはずなので省略します。信頼区間は以下のようになります。
\log(\hat{D}) - 1.96\sqrt{Var[\log(\hat{D})]} \leqq \log(D) \leqq \log(\hat{D}) + 1.96\sqrt{Var[\log(\hat{D})]} \tag{1}
となります。
ここで、前回の行った計算と同様にすると、$ \mathcal{N}(μ, σ) $に従う確率変数を$ X $としたとき、$ \exp(X) $の期待値と分散はそれぞれ$ \exp(μ+σ/2), \exp(2μ+σ) \cdot (\exp(σ)-1) $となります。これとここから逆に考えると、期待値$ m $,分散$ v $の対数正規分布に従う確率変数を$ Y $とした時、$ \log(Y) $の期待値と分散はそれぞれ、
Var[\log(Y)] = \log \left(\frac{v}{m^2}+1 \right)
となります。2つ目の式より、
Var[\log(D)] = \log \left(\frac{Var[ \hat{D} ]}{\hat{D}^2} + 1\right)
となります。これを(1)式に代入すると、
\log(\hat{D}) - 1.96\sqrt{\log \left(\frac{Var[\hat{D}]}{\hat{D}^2} + 1\right)} \leqq \log(D) \leqq \log(\hat{D}) + 1.96\sqrt{\log \left(\frac{Var[\hat{D}]}{\hat{D}^2} + 1\right)}
となります。$ D $の95%信頼区間を求めるには、各辺にexpをつけてあげればよいだけです。結果は以下のようになります。
\frac{\hat{D}}{C} \leqq D \leqq C\hat{D}
ただし、
C = \exp \left(1.96\sqrt{\log \left(\frac{Var[\hat{D}]}{\hat{D}^2} + 1\right)} \right)
です。
以上で説明は終わりですが、ここまでの記事は面倒がっていたせいでかなり適当になっているので、今後時間があるときに修正していこうと思っています。またもし分からない部分、間違いなどありましたら、コメント欄に書いていただければと思います。それではここまでこの記事をお読みいただき、ありがとうございました。
ここまでの参考資料
Buckland S.T., Anderson D.R., Burnham K.P., Laake J.L.(1993), Distance Sampling: Estimating Abundance of Biological Populations, Chapman and Hall, London.
ライントランセクト調査による個体数の区間推定4
今回は$ \bar{s} $の分散について説明します。
まず、何も調整を行わずに、単純に得られたデータの群れサイズを平均する場合です。この場合は、
\bar{s} = \frac{1}{n}\sum_{i=1}^{n} s_i
とするだけです。siはi番目の群れサイズを表します。分散は、
\begin{aligned} Var[\bar{s}] = \frac{1}{n^2}\sum_{i=1}^{n} Var[s_i] & = \frac{1}{n^2}・n・\frac{1}{n-1} \sum_{i=1}^{n} \left( s_i - \bar{s} \right)^2 \\ & = \frac{1}{n(n-1)} \sum_{i=1}^n \left(s_i - \bar{s} \right)^2 \end{aligned}
となります。
しかしこれには問題があります。通常ライントランセクト調査では、トラックラインから遠い場所だと、群れサイズが大きい群ればかり発見され、群れサイズが小さい群れのほうが見逃しやすいという事態が発生するのです。
このような場合、単純にデータの群れサイズを平均しただけでは群れサイズを過小推定する恐れがあるため、群れサイズの調整を行うことが多いです。
ではどのように調整すればよいのでしょうか。実際には、線形回帰分析により平均群れサイズを推定する手法がしばしば用いられます(Buckland et al., 1993)。モデル式は以下の通りです。
z = \log(s) = a+bg(x)+\epsilon, \hspace{8mm} \epsilon ~ \mathcal{N}(0,\sigma^2)
つまり、データ上では$ z=\log(s)とg(x) $は一次関数の関係になっていて、誤差項は正規分布に従う、ということを仮定するのです。
ここからどのように群れサイズ平均を推定するかというと、すべての個体が発見される場合、つまりg(x)=1の地点におけるsの確率分布が、真の群れサイズの確率分布と同じになると考えるのです。したがって、$ g(x)=1 $におけるsの確率分布を考えれば良いということになります。
大半の人は回帰分析を大学1年で習うので基礎的な部分は省略しますが、パラメータaとbの推定値は以下のようになります。
\hat{a} = \bar{z} - b \bar{g}(x) \tag{1}
\hat{b} = \frac{S_{xy}}{S_{xx}}
ただし、
S_{xy} = \frac{1}{n} \sum_{i=1}^{n} (g(x_i) - \bar{g}(x))(z_i - \bar{z})
S_{xx} = \frac{1}{n} \sum_{i=1}^{n} (g(x_i) - \bar{g}(x))^2
です。
モデル式より、g(x)=1の時のときのzの$ z_0 $とすると、
z_0 = a+b+\epsilon
(1)のaの推定値を代入すると、
z_0 = \bar{z} - b \bar{g}(x) +b+\epsilon
\hspace{8mm} = \bar{z}+b(1-\bar{g}(x)) +\epsilon
よって、
\begin{aligned}Var[z_0] = & Var[\bar{z}] + (1-\bar{g}(x))^{2}Var[b] + Var[\epsilon] + \\ & 2(1-\bar{g}(x))Cov[\bar{z},b] + 2(1-\bar{g}(x))Cov[b,\epsilon] + 2Cov[\bar{z},\epsilon] \end{aligned} \tag{2}
となります。ただしここでは、$ \epsilon $はデータと独立なため、$ C ov[b, \epsilon], C ov[\bar{z}, \epsilon] $はともに0になります。
回帰分析に関する本はたくさんあるので詳しい説明はそちらに譲りますが、各分散、共分散の値は以下のようになります。
Var[\bar{z}] = \frac{\sigma^2}{n}
Var[b] = \frac{\sigma^2}{S_{xx}}
Var[\epsilon] = \sigma^2
Cov[\bar{z},b] = 0
となります。ただし、$ σ^2 $は残差分散で、その不偏推定量は
\hat{\sigma^2} = \frac{1}{n-2} \sum_{i=1}^{n} (z_i - a+bg(x_i))^2
と求められます。
これらの値を式(2)に代入して整理すると、
Var[z_0] = \sigma^2 \left(1 + \frac{1}{n} + \frac{(1-\bar{g}(x))^{2}}{S_{xx}} \right)
となります。
以上より、zは期待値$ a+b $、分散$ Var[z_0] $の正規分布に従うことが分かりました。しかし今求めたいのは、$ s_0=\exp(z_0) $の確率分布です。
(正規分布に従う確率変数を指数変換した時、その分布は対数正規分布と呼ばれるものになります。)
期待値と分散を考えてみます。これらは、正規分布の確率密度関数まで戻り、期待値と分散の定義に従って積分で求めることが出来ます。
E[s_0] = E[\exp(z_0)] = \int_{-∞}^{∞}\frac{\exp(z)}{\sqrt{2 \pi Var[z_0]}}\exp \left(-\frac{(z-(a+b))^2}{2Var[z_0]} \right) dx
途中計算は面倒なので省略します。exp()の中身を平方完成して整理していくと、以下の式が導けます。
E[s_0] = \exp \left(a+b+\frac{Var[z_0]}{2} \right)
同様に$ E[s_0^2] $は
E[{s_0}^2] = \exp(2(a+b)+2Var[z_0])
となります。故に、
Var[s_0] = E[{s_0}^2] = E[s_0]^2 = \exp(2(a+b)+Var[z_0])・(\exp(Var[z_0])-1)
となります。これが、$ g(x)=1 $となる点における群れサイズsの確率分布の期待値と分散です。
これをもとに群れサイズの平均について考えれば良いわけです。平均の期待値は$ E[s_0] $に一致します。分散は、上で求めた$ s_0 $の分散をnで割れば良いだけです。
ライントランセクト調査による個体数の区間推定3
さて今回は発見群数$ n $の分散について考えようと思います。
まずは皆さんに問題です。ある海域において、1kmのライントランセクト調査を行った翌日、同じ海域で2kmの調査を行ったとします。ただし、天候や有効探索幅などの条件はすべて同じであると仮定します。この時、2つの調査における発見群数の期待値や分散の関係はどうなるでしょうか。
発見群数の期待値は、もちろん調査距離に比例します。では分散はどうでしょうか。2kmの調査の記録を、半分までの1kmと残りの1kmに分けて考えます。双方の調査は完全に独立です。なので、総発見群数の分散は1kmの時に比べて2倍になります。
3kmのときはどうでしょうか。同じように考えると、分散は3倍になりそうですね。
このように考えていくと、発見群数の分散も調査距離に比例することが分かるかと思います。つまり、発見群数の期待値と分散は常に比例することが分かります。
この性質を使って、発見群数nの分散を求める方法を説明します。ライントランセクト調査ではこれを求めるために、データを分割して部分トランセクトというものに分けます。この分け方は通常、日付によって分けたり、あるいは調査コースをいくつかに分割することによって分けます。
各部分トランセクトにおける調査距離を$ L_i $とし、全体の調査距離$ L_i $の総和を$ L $とします。同様にして、各部分トランセクトにおける発見群数を$ n_i $とし、全体の発見群数($ n_i $の総和)をnとします。さらに$ n $の期待値($ E[n] $)を$ n_0 $とします。
先ほど見たように、発見群数の期待値と調査距離は比例するので、i番目の部分トランセクトにおける発見群数の期待値は、
E[n_i] = \frac{L_i}{L} n_0 \tag{1}
となります。同様に分散も調査距離に比例するので、
Var[n_i] = \frac{L_i}{L} Var[n]
この式を以下のように変形してみます。
Var[n] = \frac{L}{L_i} Var[n_i] \tag{2}
ここで、$ n_i $の分散の定義より、
\begin{aligned} Var[n_i] &= E[(n_i - E[n_i])^2] \\ &= E\left[\left(n_i - \frac{L_i}{L} n_0 \right)^2\right] \end{aligned} \tag{3}
(3)を(2)に代入すると、
Var[n] = E\left[\frac{L}{L_i} \left(n_i - \frac{L_i}{L} n_0 \right)^2\right]
故に、$ n $の分散の不偏推定量は、
\hat{Var[n]} = \frac{L}{L_i} \left(n_i - \frac{L_i}{L} n_0 \right)^2
これはすべてのiについて成り立つので、さらに精度を上げるために、これらをiについて平均します。
\hat{Var[n]} = \frac{1}{s} \sum_{i=1}^{s} \frac{L}{L_i} \left(n_i - \frac{L_i}{L} n_0 \right)^2
ここで、sは部分トランセクトの数を表します。
実際には、$ n_0 $はデータから求めることが出来ません。そこで、$ n $で代用することになるのですが、統計学を学んでいる人は、不偏分散の式の分母が(標本数)-1になることを知っていると思います。これは、期待値を平均で代用した時に不偏推定量ではなくなる、という性質によるものでした。今回も同じです。そのまま$ n $で代用してしまうと、不偏推定量ではなくなるという事態が発生します。従って、$ n $の分散の不偏推定量は以下のようになります。
\hat{Var[n]} = \frac{1}{s-1} \sum_{i=1}^{s} \frac{L}{L_i} \left(n_i - \frac{L_i}{L} n \right)^2
暇ができれば厳密な証明をこちらに書くかもしれません。
ちなみにですが、n/Lの値のことを遭遇率と呼ぶことがあります。遭遇率の分散の不偏推定量は、上で求めた式と、分散の基本的性質を使えば、下のようになります。
\begin{aligned} \hat{Var[\frac{n}{L}]} &= \frac{1}{L^2} \hat{Var[n]} \\ &= \frac{1}{s-1} \sum_{i=1}^{s} \frac{1}{{L_i} L} \left(n_i - \frac{L_i}{L} n \right)^2 \\ &= \frac{1}{s-1} \sum_{i=1}^{s} \frac{L_i}{L} \left(\frac{n_i}{L_i} - \frac{n}{L} \right)^2 \end{aligned}
関連資料:
岡村寛(2004), 「海産哺乳類を中心とした生態系モデリングのための数理統計学的研究」, 水研センター研報 No.10, pp.18-100
ライントランセクト調査による個体数の区間推定2
前回の記事の続きです。今回は$ \hat{w} $の分散を考えます。そのために、前回扱ったデルタ法を一般の二変数に拡張してみます。
確率変数$ X_1,X_2 $があり、それぞれの期待値を$ \mu_1,\mu_2 $とします。それらを説明変数とした任意の関数$ f(X_1,X_2) $の一次近似式は
f(X_1,X_2) \cong f(\mu_1,\mu_2) + (X_1 - \mu_1) \frac{\partial f}{\partial X_1}(\mu_1,\mu_2) + (X_2 - \mu_2) \frac{\partial f}{\partial X_2}(\mu_1,\mu_2) \tag{1}
となります。
前回は2つの説明変数が独立だったので簡単でしたが、今回は独立でない場合も含めて一般化してみます。そこで、分散と共分散に関する以下の性質を利用します。
Var[aX+bY] = a^{2}Var[X] + b^{2}Var[Y] + 2ab・Cov[X,Y] \tag{2}
これは、分散と共分散に関する以下の基本的性質を用いることで簡単に証明できます。
\displaystyle Var[X] = E[X^2] - (E[X])^2
Cov[X,Y] = E[XY] - E[X]E[Y]
さて、(1)式と(2)式を用いると、$ f(X_1,X_2) $の分散は、
\begin{aligned} Var[f(X_1,X_2)] \cong & Var[X_1] \left( \frac{\partial f}{\partial X_1}(\mu_1,\mu_2) \right)^2 + Var[X_2] \left(\frac{\partial f}{\partial X_2}(\mu_1,\mu_2) \right)^2 \\ & + 2\frac{\partial f}{\partial X_1}(\mu_1,\mu_2)・\frac{\partial f}{\partial X_2}(\mu_1,\mu_2)・Cov[X,Y] \end{aligned}
となります。
ここで、$ \frac{\partial f}{\partial X_1}(\mu_1,\mu_2),\frac{\partial f}{\partial X_2}(\mu_1,\mu_2) $に注目してみると、線形代数に詳しい人なら分かるとおり、二次形式になっています。なので、$ \displaystyle f(X_1,X_2) $の分散は下のように行列形式で表すことが出来ます。
Var[f(X_1,X_2)] \cong \left( \frac{\partial f}{\partial X_1}(\mu_1, \mu_2) \hspace{4mm} \frac{\partial f}{\partial X_2}(\mu_1,\mu_2) \right) \left( \begin{matrix} Var[X_1] & Cov[X_1,X_2] \\[6pt] Cov[X_1,X_2] & Var[X_2] \end{matrix} \right) \left( \begin{matrix} \frac{\partial f}{\partial X_1}(\mu_1, \mu_2) \\[6pt] \frac{\partial f}{\partial X_2}(\mu_1,\mu_2) \end{matrix} \right)
線形代数が苦手な人でも、下の式を展開すると上の式に一致することを確かめてください。
右辺の真ん中の2×2行列のように、対角成分が各変数の分散、それ以外の成分が共分散になっているような行列を分散共分散行列と言います。正確な定義はここでは不要なので割愛します。
また、分散共分散行列の両側にある偏微分で表されたベクトルは勾配ベクトルと呼ばれ、$ \nabla f(\mu_1,\mu_2) $と表記することもあります。
デルタ法を一般の2変数関数に拡張したこの段階で、いよいよ$ \hat{w} $の分散を考えます。$ \hat{w} $は発見関数のパラメータに依存し、またそのパラメータはデータから得られる確率変数です。例えば発見関数がhazard-rate関数の時は以下のように表されるのでした。
\hat{w} = \int_0^{x_M} 1 - \exp \left( - \left( \frac{x}{a} \right)^{-b} \right) dx
$ x_M $は予め設定される定数なので、右辺の中の確率変数はaとbの二つです。つまり、$ \hat{w} $は確率変数a,bを説明変数とした二変数関数であることがわかります。a,bの期待値を最尤推定量$ \hat{a},\hat{b} $で評価すると、デルタ法より、
Var[\hat{w}(a,b)] \cong \left( \frac{\partial \hat{w}}{\partial a}(\hat{a}, \hat{b}) \hspace{5mm} \frac{\partial \hat{w}}{\partial b}(\hat{a},\hat{b}) \right) \left( \begin{matrix} Var[a] & Cov[a,b] \\[6pt] Cov[a,b] & Var[b] \end{matrix} \right) \left( \begin{matrix} \frac{\partial \hat{w}}{\partial a}(\hat{a}, \hat{b}) \\[6pt] \frac{\partial \hat{w}}{\partial b}(\hat{a},\hat{b}) \end{matrix} \right)
となります。偏微分の定義を考えれば、勾配ベクトルの近似値は数値計算で簡単に求まりそうですね。ところが、aとbの分散共分散行列は定義を考えてもうまくいきそうにありません。求めるのは不可能なのでしょうか。
心配ご無用。実は、最尤推定量の分散を考えるのにすごーく便利な法則があるのです。それが下の定理です。
Hessian行列の逆行列は漸近的に(つまりサンプル数を無限大に近づけた時に)最尤推定量の分散共分散行列に一致する。
尤度関数のパラメータが二つの場合は、Hessian行列は以下のように定義されます。
H(\hat{ \theta_1 },\hat{ \theta_2 }) = - \left( \begin{matrix} \frac{\partial^2}{\partial {\theta_1}^2}\log L(X|\hat{\theta_1},\hat{\theta_2}) & \frac{\partial^2}{\partial \theta_1 \partial \theta_2}\log L(X|\hat{\theta_1},\hat{\theta_2}) \\[6pt] \frac{\partial^2}{\partial \theta_2 \partial \theta_1}\log L(X|\hat{\theta_1},\hat{\theta_2}) & \frac{\partial^2}{\partial {\theta_2}^2}\log L(X|\hat{\theta_1},\hat{\theta_2}) \end{matrix} \right)
ここで、$ \hat{ \theta_1},\hat{ \theta_2 } $は各パラメータの最尤推定量を、$ L(X|\theta_1,\theta_2) $は尤度関数を表します。
この定理を使って、aとbの分散共分散行列を求めてみます。aとbの尤度関数は
f(X|a,b) = \prod_{i=1}^{n} \frac{g(x_i)}{w}
と表されるのでした。この関数fを用いると、aとbのHessian行列は
H(\hat{a},\hat{b}) = - \left( \begin{matrix} \frac{\partial^2}{\partial a^2}\log f(X|\hat{a},\hat{b}) & \frac{\partial^2}{\partial a \partial b}\log f(X|\hat{a},\hat{b}) \\[6pt] \frac{\partial^2}{\partial b \partial a}\log f(X|\hat{a},\hat{b}) & \frac{\partial^2}{\partial b^2}\log f(X|\hat{a},\hat{b}) \end{matrix} \right)
となります。
以上の内容をまとめると、$ \hat{w} $の分散は以下のようになります。
Var[\hat{w}(a,b)] \cong \nabla \hat{w}(\hat{a},\hat{b})^\mathrm{T} \cdot H(\hat{a},\hat{b})^{-1} \cdot \nabla \hat{w}(\hat{a},\hat{b})
(Tは転置を表す)
ただし、
\nabla \hat{w}(\hat{a},\hat{b}) = \left( \begin{matrix} \frac{\partial \hat{w}}{\partial a}(\hat{a}, \hat{b}) \\[6pt] \frac{\partial \hat{w}}{\partial b}(\hat{a},\hat{b}) \end{matrix} \right)
H(\hat{a},\hat{b}) = - \left( \begin{matrix} \frac{\partial^2}{\partial a^2}\log f(X|\hat{a},\hat{b}) & \frac{\partial^2}{\partial a \partial b}\log f(X|\hat{a},\hat{b}) \\[6pt] \frac{\partial^2}{\partial b \partial a}\log f(X|\hat{a},\hat{b}) & \frac{\partial^2}{\partial b^2}\log f(X|\hat{a},\hat{b}) \end{matrix} \right)
次回は$ n $の分散について考えます。ポアソン過程の知識があった方が分かりやすいかもしれません。