著名な倫理学者ピーター・シンガー氏は、日本のIWC脱退をどう見るか

Peter Singer(ピーター・シンガー)氏は、応用倫理学の世界的権威として知られており、2005年にタイム誌によって世界の最も影響力のある100人にも選ばれた著名な倫理学者です。

彼自身は動物の権利論や菜食主義思想の新たな枠組みとして独自の道徳規範を提唱し、過去40年以上にわたる論争によって、生命倫理学に関する知見を飛躍的に進歩させてきました。

彼の理論はほぼ全て利益に対する平等な配慮という唯一つの道徳規範に基づいており、今までに

など数多くの著書を執筆しながら、多くの社会問題に関して応用倫理学的見地から疑問を投じています。

また彼は一部の動物種に対して人格(Personhood)が認められると主張し、従来のパーソン論と動物倫理学との橋渡しを行うなど、これまでの倫理学の枠組みに大きな変化をもたらしてきました。

そんな彼が先日、カナダのThe Globe and Mail誌に社説を掲載しました。内容は日本のIWC脱退に対するもので、現代倫理学的観点から見た捕鯨のあり方と問題点、そしてIWCが果たすべき役割について執筆なされています。

今回の記事は、この社説の全文和訳です。捕鯨問題の説明資料として是非ご活用頂ければと思います。

稚拙な和訳ですがご了承ください。

「海には多くのクジラがいるが、人間が獲るための『資源』ではない」

12月26日、日本は国際捕鯨委員会IWC)から脱退することを発表した。菅義偉内閣官房長官は沿岸地域における捕鯨事業の文化的重要性を強調したうえで、IWCが鯨類の保護ばかりに注目し、持続的な捕鯨事業の発展という本来の目的を見失っていると主張した。

IWCが本来の目的に沿っていないというのは否定しがたい事実だ。IWCはもともと1946年に採択された国際捕鯨取締条約に基づいて設立された機関である。同条約の前文では鯨類を「大きな天然資源」と捉えており、また条約の目的が「鯨類資源の適正な保全を行い、それにより捕鯨事業の秩序ある発展を実現する」ということが明記されている。

最初の25年間、IWCはその方針に従ってきた。しかし1970年代以降、鯨類に対する情勢は変化し始める。捕鯨を続行するために資源の非持続的な乱獲を防止する目的で加盟していた国々が、市民の意見を積極的に取り入れ始めたのだ。その結果、1986年に商業捕鯨モラトリアムが採択された。すべての鯨種に対していかなる捕鯨によっても持続可能性が危ぶまれるとは言い難い現在においても、このモラトリアムは解除されていない。

日本は公然とモラトリアムに違反していたわけではない。しかし、科学的研究のために鯨を殺すことができるという条約の抜け穴をくぐり抜けてきた。日本は科学的研究という名目で毎年約300頭の鯨を捕獲していたのである。鯨肉を食べたいという人は年々減少しているにもかかわらず、鯨類の死骸は捕鯨船により回収され、その肉を鯨肉として販売していた。

2010年、オーストラリアは日本を国際司法裁判所に提訴し、その結果日本の捕鯨は実質的には商業捕鯨であり、条約に違反するという判決がなされた。しかし日本は研究計画にわずかな変更を加えただけで、その後も以前とほぼ同じ数のクジラを捕殺し続けた。

昨年9月、ブラジルのフロリアノポリスで開かれた会合で、商業捕鯨モラトリアムを続行するというブラジルの提案(フロリアノポリス宣言)が賛成40、反対27で可決され、IWCの目的に変化が芽生えた。捕鯨はもはや不必要な経済活動とみなされるようになったのである。国家の意地にかけても捕鯨を存続したかった日本にとって、この採決は無益なIWCへ加盟し続けるための最後の藁となった。

しかし我々が無視できない事実は、IWCにおける情勢の変化を招いた鯨類への新たな姿勢は、神聖な大型動物を殺すことに対する感情的な嫌悪によるものでも、西洋の価値観の押し付けによるものでもないということだ。その根底にあるのは、鯨類に関する科学的知見の発展と、人間を超えて他の種にまで道徳的配慮の輪を広げようとする人類の倫理的進歩である。こういった道徳的配慮は、あらゆる生命に対して畏敬の念を抱くという日本の仏教における戒律に非常に類似している。

1946年以降鯨類に関する知見は飛躍的に進歩し、彼らが巨大な脳を持つ社会的な動物であること、多様な鳴音を用いて他の個体とコミュニケーションをとることが分かってきた。彼らは自分の子供や社会的な群れと強く結ばれている。クジラは非常に長生きする動物で、特にホッキョククジラは他のどの哺乳類よりも寿命が長く、ある個体からは200年も前の牙の先端が肉の中から発見されている。他のクジラも40年以上という長い寿命を持っている。また、彼らは感情と痛覚の両方を併せ持つと言われている。それも物理的苦痛を感じるのみならず、群れの仲間や自分の子供を失った際に精神的苦痛を伴う可能性が非常に高い。

それ故に鯨類は、国々が石炭を資源として蓄えるという意味での「資源」ではない。また、小麦畑のように収穫されるような「資源」でもない。彼らは一つの道徳的存在であり、彼らの生き方に従って彼らの行く末が決定される。

現代の商業捕鯨では、移動する標的に向けて移動する船舶から爆発銛を発射することでクジラを捕殺している。この方法を用いてクジラの急所に命中させ、相手の意識を一瞬で消失させることは非常に困難である。また一瞬で絶命させるほどの爆発を起こそうとするとクジラの体が吹っ飛んで粉々になってしまうが、捕鯨船の乗組員の目的はなるべく無傷で鯨体を回収することであるため、あまり多くの爆薬を使用することを望まない。もし仮に我々がクジラを食べないと死んでしまうという状況であれば、感受性を持つ社会的動物に対してそのような捕殺方法を取ることも必要悪と認められるかもしれない。しかし日本含む飽食の国にとっては、それは正当性を持たない。

捕鯨事業が古来からの遺産であるような日本の一部の地域のおいても、捕鯨は十分な正当性があるとは言えない。中国における纏足は古来からの文化的遺産であったが、女性にとっては多大な負担であった。今となっては、この文化が衰退し過去の出来事となったことは好ましいことだ。捕鯨も同じ道を辿るべきであろう。

いや、実際そうなるかもしれない。日本がIWCを脱退すれば、「科学的研究」の名目のもとで南大洋で行っている捕鯨は中止となる。この事実を認識したうえで、日本は、自国の領海または排他的経済水域EEZ)内、つまり、国土の周囲約450万平方キロメートルの海域でのみ捕鯨を行うことを宣言した。面積だけで言えば十分広いのだが、南大洋と比較するとクジラの生息数は遥かに少ない。また日本は持続可能な捕鯨を計画しているため、捕鯨船による捕獲枠は大きく制限される。

我々は日本がIWCを脱退したという事実にうろたえるのではなく、むしろ1994年にIWCで採択された南大洋サンクチュアリが、今では粗暴な「科学的研究」が二度と行われることのない、本当の意味での「聖域」になるということを喜ぶべきなのかもしれない。

一部の日本国民を含む多くの国の人々が持つ正当な道徳的関心を無視し、日本はIWCからの脱退を決定した。これにより日本は国際社会からの孤立への道を一歩進むことになる。しかし次世代の日本で政権を握る人々は、間違いなくこれを誤ったステップと捉え、そして再び逆転させようと考えるだろう。

ちなみにPeter Singer氏は以前にも捕鯨問題に関する記事を執筆なさっています。こちらは別の方が既に全訳されているようなのでリンクを貼っておきます。

davitrice.hatenadiary.jp